母が倒れた日 彼女と彼女のまわりとの戦いが始まった日

母が倒れた日。

2007年7月24日

「森のくまさん」の音色が聞こえる。

私は、いままで寝ていた。何時だろうと時計をみると、午後9時だった。

母は、もう帰ってきてるんだろうか?と確かめてみた。

「おかあさん。おかあさん。」

返事は返ってこない。友達の家に出かけているんだろうとは思っていたけど、いくらなんでも帰るの遅いでしょ・・・何かあったんじゃないだろうか?と不安に思った。

そんなことを考えながら、受話器をとった。

「はい。もしもし。」

「○○ちゃん。お母さん迎えにきてちょうだい。寝ちゃってて、困ってるの。早くお願いね。」

電話の相手は、近所のおばさんからだった。

また、お邪魔して話し込んで寝ちゃったんだろうと・・・しょうがない人だなあと思いながら、迎えにいってみた。

「ごめんください。母を迎えにきました。」

奥から、おばさんが「あがってー」といっていた。

「お邪魔します」

あがっていくと、居間で母が、あきらかに不自然な姿勢で、横倒れている姿が見えた。

「え・・・なにこれ・・どうしたの?お母さん。お母さん。」

母が、口から泡を出して、真横に倒れていた。体は、硬直してなかったけど、腕をあげてみたけど、だらーんと力がまったく入っていない状態。

おばさん、これ見ておかしいって思わなかったんだろうか・・・と思い、いつからこんな状態なのか?たずねた。

「なんか寝ているみたいよ。起こしたらかわいそうだし、寝かせておいたの。」

「え・・」誰がみたって、おかしいと思うだろう・・・あきらかに寝ている状態じゃない。

「タクシー呼ぶ?」と言われた。

なんか変じゃない・・・それ。おばさんの態度に不審を感じたけど、このままでいいはずないので、救急車呼んでもらった。

15分ぐらいして、救急車がつくと、母の容態をみて、急いで搬送。

私は、救急車の中で母の手を握り、祈った。「早くついて。お願い。」

病院にて

2007年7月24日午後9時頃

私は、救急車の中で、母のよだれをぬぐっていた。

救急隊員の方が、搬送先の病院をどこにするか話し合っていて、かかりつけの病院か何かないですか?と聞かれたので、ないと答えた。

母の症状から、脳疾患だと判断したようで、いきさきは、脳神経外科

15分ぐらいして、病院についた。

母は、意識がないとのこと。

脳神経外科の先生が、すぐ診えられて、処置は早かった。

私は、ただ立ちすくんでいたと思う。あんまり記憶がない。

母の手をずっと握っていたとおもう。

「○○さん。こちらへどうぞ。先生からお話があります。」看護婦さんに呼ばれて診察室にはいる。

先生の顔つきが、すごく厳しかった。

今の症状がどういう状態かということ。これからどういう治療をするかの説明。ほかに身内が入れば、呼んでくださいと。そして、最後にこういわれた。

「植物状態になるかもしれません。覚悟はしておいてください。」

愕然とした。

頭が混乱していたし、動転していたので、よく覚えていないけど、ロビーで呆然としていたように思う。

しばらくして、誰かに知らせなきゃと、動転しながらも、母の弟に電話して母のことを話した。

叔父は、次の日きた。

母の兄弟たち

2007年7月25日

○○ちゃん。大変だったな・・

私は、病院のロビーで一夜を過ごした。(たぶん・・記憶があいまいなので、なんとも言えないけど)

ぜんぜん寝てないから、ぼぉーとしていたと思う。その声がした先に叔父が現れて、なんか心配そうな表情だった。

叔父とは、何十年ぶりに会う。

母から、何かあったときは、叔父に連絡してくれと言われていたのを覚えていたので、ただそれだけの理由で電話した。頭が真っ白だったので、なぜ?あの時叔父に連絡したのかわからない。

本当は会いたくない相手だった。

叔父には、母の他の兄弟には連絡しないでくれと頼んだ。

母の兄弟なのに、連絡しないでくれというのはおかしいとは自分でもわかってる。

だけど、母が望んでいないことだと思ったからそう言った。

兄弟だからって仲がいいとは限らない。

叔父に頼んだあと、家に一度戻った。着替えが必要だったし、入院の手続きもあったので、必要なもの全部そろえて、また病院に向かった。

母は、集中治療室に入れられた。面会は、大丈夫だったけど、鼻から管を通されて、顔がかなりむくんでいた。昨日は、そんなむくみなどなかったのに、一日でこんなに変わるものなのかと思うぐらいふくらんだ顔で・・・どうなるのか、不安だった。

「○○さん。ナースステーションまでお願いします。」

ナースステーションから呼び出し。

いってみると、主任の看護士さんから、今後の治療について先生から詳しくお話があると知らされた。先生がきたら、また呼び出すので、それまで待機しておいてくれとのこと。

母のそばにいてあげなきゃとわかっているけど、管に繋がれ、顔は紫色にむくみ、呼んでも反応のない母のそばに、ずっと居ることは、かなりつらかった。

すこし離れるけど、ごめん。って言って、休憩室にむかい、そこで、横になった。

「○○ちゃん。何してるんな!起きなー!」と、突然どなられて、目が覚めた。

なんで、こいつらがここにいる・・・

母の姉、妹、伯父、妹婿、叔父の姿がそこにあった。

叔父は、私と目をあわそうとしない。ばかやろ・・・

「お母さんのそばに居てやらんね。この子は!」と、母の姉にどなられ、そんなことは、あんたに言われなくても、わかってる。

妹婿は、顔をへらへらさせながら、母の容態について、根掘り葉掘りきいてくる。

私は、この二人が一番嫌いだった。

叔父に言いたいことあったけど、それは後でいい。

この人たちに、母のことを知られたことが、これから先の一番の心配ごとだった。

知られたくなかった。こんなに早くは・・・

ナースステーションから呼び出しがきた。

よりにもよって、こいつらが来ているときに・・・

看護士さんが休憩室まできて、「お身内の方ですか?先生からの説明がありますので、一緒にきかれますか?」と言ってきた。私が一人で聞くというのを制止し、この人たちは、勝手についてきた。

妹婿のおもしろそうにしている態度やにやけた表情が、いまでも忘れられない。

先生から説明がされたときの様子を書くのは、冷静な気持ちでは書けない。

先生からの説明が終わったあと、母の兄弟たちは、すぐ帰った。というか、私の態度をみて、帰ったほうがいいと思ったのかもしれない。叔父以外は、みんなすぐいなくなった。

叔父は、謝らなかった。当然のことをしたと言ってたっけ。

疲れた・・・

それからあとのことは覚えてない。家に帰ったことは覚えてる。看護士さんが、一度眠ってきたほうがいいとか言ってくれたような気がする。

その日かかってきた電話のことは、忘れられない。

家で寝ていて、よく眠れたなぁと思ったけど、くたくただったから。

電話のベルで目が覚めるまで、寝てた。

「○○。あんたな。間違っても、うちら兄弟にお金のこと頼んでくるなよな?わかってるな?」

母の姉からの電話だった。

何言ってるんだ。こいつ・・・と、あの時思った。

父方の親戚に頼めだの、言ってたっけ。言いたいこと言って、伯母は電話を切った。

なんか情けないやら、あきれるわで、なんで、こんなこと言われなきゃいけないんだ!って怒りがこみあげてた。

翌日の奇跡

2007年7月26日朝

叔父が病院に連れていってくれた。というか、「朝9時までに用意してろ。俺が毎日送り迎えしちゃる。わかったな」と強引に連れて行かれてた。

すごくありがたいのだけど、信用できないこの人は・・・

悪気がない人だとは思う。だけど、相手の気持ちを推し量る気遣いがなさ過ぎる。

昨日、母の姉から電話があったことは、ふせておいた。

また、どんな余計なことしてくれるかわからないから・・・もう勘弁してくれ。

病院についた。

「ありがとう。すいませんでした。」と言って、車を降りてすぐ病室にむかった。

叔父もあとから来た。

「おかあさん。来たよー」

昨日と変わらず、顔はむくれて紫かかっていた。何度も呼ぶけど、反応がなかった。叔父も呼んだけど、反応なし。

このまま意識が戻らないままなんだろうか・・・

叔父は、用事があるとか言って、母の様子を確認すると帰っていった。

「お母さん。負けるな。絶対戻って来い。」

昨日の母の姉からの電話を思い出してた。

あんなこと言われて、くやしい。だから、絶対戻って来い。って気持ちで呼びかけた。

目が開いた・・・

「おかあさん!おかあさん!」すぐ看護士さんを呼んだ。

看護士さんがきて、呼びかけた。反応はなかったけど、目が開いてる。。これって、意識が戻ったってこと?なのかな・・・

「娘さん。おかあさん、すごいですね。意識戻られましたよ^^先生に報告しますね。」

やったああ^^

奇跡だ。植物人間になること覚悟できてたわけじゃないけど、そうならなくてよかった。

おかえり^^おかあさんb

私の試練。

2007年 11月頃

意識を取り戻した母は、三ヶ月ぐらい入院をよぎなくされた。入院の間、私は、以前知り合いに誘われた仕事に挑戦してみようと思い、がんばっていたし、お金になるまでに時間がかかりそうなので、内職も探してた。

そして、そろそろ退院するぐらいになったころ、私の体に変調がおこった。

右わき腹に激痛が走った。

最初は、軽い痛みだったのが、だんだん激しくなる。なんだこれ・・・

そのときは、すぐ収まった。

それから、しばらくたったとき、母の入院している病院にいくため自転車で走っていると、突然また痛み出した。

休めば、よくなるだろう。そう思って、近くの公園で休んだのだけど、痛みは激しくなる一方。

近くをゲートボールをしにやってきていた老人たちが歩いていて、こっちをみてる。

その中の一人が、私に声をかけてきた。

大丈夫なの?病院に連れていってあげようか?

声がでないので、うなづいた。

あとで考えてみたらおかしいって思うのだけど、そのときは、母が入院している病院まで連れていってくれとお願いしてた。

病院につくと、すぐ車椅子に座らされて、すぐレントゲンにかけられた。

検査が終わり待っている間、ずっと痛みで気が狂いそうだった。痛み止めくれないし・・・

待合室で痛みに耐えながら、待っていると、検査結果がわかったそうで、診察室に通された。

「どこも悪いとこないんだよね」

医者からそういわれて、「?はあ」と言いそうになった。こんなに痛いのに、どこも悪いとこがないってどういうこと?

とりあえず、痛み止めの薬をあげておくから、それで様子をみてください。と言われ、帰された。

母の病室のよることは、今は無理そうなので、しかたなく家に戻った。タクシーで

家に戻って、しばらくすると、また痛みが起こったので、もらった痛み止めを飲んで休んだ。のだけど・・・

痛い・・痛い・・ 我慢ができない激痛がまたおそってきた。

これは、もうやばいと思った。救急車をよばなきゃ・・・

しばらくして、ピーポー ピーポーとなりながら車がはいってくるのがわかる。

痛みに耐えながらも、家の戸締り全部終わらせて、玄関で待っていた。

すぐ救急隊員がきて、担架に乗せられて、連れていかれた。

車の中で、過呼吸症になっているとか、搬送先どこにするかとか隊員同士の会話が聞こえて、私は、なんでもいいから、なんとかして!みたいなイライラしているような痛みで思考がおかしくなっていた。

病院についた。看護婦さんが数人出てきて、私をベッドに移動し、レントゲンにかけられた。

痛み止めの点滴みたいなのをされて、痛みはしだいに取れていった。

病名 腰部脊柱管狭窄症

後日わかった病名。

最初は、泌尿器科へ。そして、婦人科へ。検査検査の繰り返しだったけど、原因わからず、痛みの原因を調べるため、国がつくった病院へむかった。

そこで、わかった病名が 腰部脊柱管狭窄症。

どんな病気かわからないけど、ネットで調べてみると、だいたいのことは、わかった。

結構、やっかいなやつだ。

まだ、軽症なほうなので、薬の治療で済むらしい。

腹筋鍛えたい。先生だめかな?

先生から言われた言葉。「無理は、絶対にだめです。一生歩けなくなってもいいんですか?」

無理とは、どこまでが無理なのか、わからない。

とりあえず、どこまで無理がきくか、普通に過ごしてみた。

立ちっぱなし、だめ。歩きっぱなしだめ。坂道、やばい・・・。階段、さらにきつい・・・。重いもの、持てない。自転車は、なぜかいける。とりあえず、痛い。

じーーーーとしておくなんて、無理だ。

暇すぎて、飽きる。

痛いけど、休憩とりながら、歩く。

つづく