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ここ三日にかけて、過去の男話してきた根底にあるものは

祖父と母と父と私の視てきた 人

ミャま物語とは別に、巳影は、「誰にも知られず誰かを助けた丘」を書き進めてる。

この物語は、純文学でも大衆文学でもなんでもない。

誰かが、なにかにあてはめようとしやがる。気に入らない。

巳影が、物語に、「コピー禁止」をかけたのは、勝手にコピーされて、添削されて、指摘されたときに、

「あ。こいつ、一言も「ちょいと、あんたの文章借りるよ」と言って来なかった。」

それは、どんな文章であっても、同じ物語描いてる者同士なら、

物語を大事にしている者同士なら、

絶対に出来ないことだ。

土足で、人の心に踏み込んで 「あの表現は、もっと他の受けを狙える」とか、「受けを狙うために心を捻じ曲げることなんてできるか」

それがわかってない者が、小説家なんて肩書きを並べ立ててる。

失笑した。

批評は甘んじて受けれる。けど、礼儀のないやつの話を聞く気にはなれない。

だから、厳重にさせてもらった。批評はかまわない。

ところで、男の話をしたのは、今書いてる作品の中で、特に、二作品に関係してくる。

「男が二人いれば、女一人、何も悩まずにいられるだろうか?」

「子供からみた、男親・女親とは、どういう存在だったか?」

「男親がみせる「男の顔」を、子供はどう受け取れるだろうか?」

「女親がみせる「女の顔」を、子供はどう受け取れるだろうか?」

この点が、どうしても、描き出せないんだ。

巳影の記憶だけでは、ただ憎しみから、母親を ただひたすら哀れな女に描きかねない。

これではいけないんだ。

母親である目の前の女には、「ただ哀れ」だけでは語れない「顔」があるはずだからさ。

男親もそう。「女の尻」追っかけてても、追っかける背後にある「男の寂しさ」を読み取れなければ、だめなんだ。

ずっと、自分が経験してきた中に、出会ってきた男たち。女たちに、

見た目から感じた印象だけでは見出せない「心の描写」が描けないと、だめなんだ。

なんか苦しいから、またここに吐いてる。だめだな。。これじゃ