去年 母が亡くなるまでに合った事

母が、癌を発病したのは、2010年9月17日

絶対忘れない。

大学病院に緊急入院。とはいっても、主治医の診療記録書を持っていかないといけない。検査をするために、急いで行かなければいけないのに、10日は要した。

それから、介護タクシーを使って、母を搬送。私も同乗。

到着して、すぐ検査。

検査は、すぐ終わる。婦人科医から、説明を受ける。

「持ったとして、3ヶ月です。このまま、帰られますか?」

この言葉は、びっくりした。検査はするが、治療はしないよ。という意思表示だ。

私は、治療をしてください。とお願いする。

「お金あるの?払えるの?」と、いきなり聞かれた。

そこらへんは、私は、気にしない。タクシー代は、交渉しても、医療費の法的に適用される範囲を知っているから、慌てないからだ。

治療してください。そのかわり、「医療費適用範囲を教えてください。」

適用範囲 ぎりぎり で、交渉する。これが、私のとった交渉譲歩点。

医師は、意外と知らない人が多かった。医療費適用内での法的免除の範囲を。

それを説明したら、態度が一変。。

医療費免除適用範囲にギリギリまで事務方と話し合い、免除がなければ、200万は掛かるところの医療費を、ほぼ0に抑え込んで、癌治療をしてもらえた。

事務方とも、私は交渉し、一番お金の掛からない「セット料金」を算出してもらい、退院時、一発で終わらせる方法を取った。

計算高い女と言われるかもしれない。

だけど、こうなった原因は、ある。

一つは、母が倒れてからの人間関係にある。

私は、介護で忙しい。息抜きはしたいので、ほぼネットで息抜きをしていた。話を聞いてもらったり、最初は、人に愚痴を聞いてもらって解消していた。

これが、間違い。ネットで出会った方たちの多くは、私のように、何かしら「抱えている」人がほとんどだった。

息抜きにならない。現実の人付き合いとまったく一緒だからだ。

時間が合わない。これは、しかたがない。

時間を合わせてほしいという要望に答えられない。これも、しかたがない。

思いやりをかけてくれ。これも、答えられない。母の介護でいっぱいいっぱいで、相談事にまで構える余裕はない。

なんでも言って下さい。それは、無理。私は、他者が出来るせいいっぱいの善意の範囲を知っている。匿名で交流できるネットで、垣根を越えて、リアルに「母の介護面まで?」助けを求めれるわけがない。

望んでさえいない。

そこに、結局、こちらの事情を話さなければいけなくなる。

話せば、「重い話はやめてください。」といわれる。

「事情を話さないと、あんたは、私を離しくれないだろ?」そう言っても、通用しない。ここで、相手に辟易してしまう。

誰にも頼れない。誰かに頼ることは危険。

知恵を絞れ。一人が一人を支えきれるそんな知恵をイメージしろ。

これが、母を介護する上で、私を支えてきた言葉。

ずっと、この7年、この言葉を念頭に入れてきた。

まわりから、付き合いが悪いと言われても、「事情を話せば、結局、重荷になるだけ。抱えきれない事情を前に、逃げ出すような他者を当てにするな。」そう言い聞かせて、シカトしてきた。

寂しい人付き合い。わかってる。すごく寂しい人間関係だ。

だけど、無理なものは無理。

人間は、助け合える。絆を築ける。そんな言葉は、余裕がある者の言葉だ。

私の7年間に、余裕などなかった。

土地を狙って、家の処分をさせようと詰め寄ってきた あの女。

母が倒れた時、なんの介抱もせず、放置した あの女。

あの女と徒党を組み、闘病中の母の寝室の前で、大声で、嫌がらせをしてきた女達。

警察に通報してきた。警察は、街の規律を守る。人は守らない。当てにならないと知った。

法テラスに相談した。裁判の起し方。費用の免除手続き。

そこまで、行動を起して、始めて、嫌がらせを止めた女達。

私にとって、人は、敵だ。特に、この国の村社会の「悪い部分」が露見した時は、全ての日本人を、敵と見なすほど憎んできた。

今でも、憎んでる。この国の日本人という民そのものを、憎んでる。

そこへ、東日本大震災が起こった。

私の住む街にも、「津波警報」が鳴った。まわりの住民は、すぐ避難。

うちは、母とともに、家に残された。覚悟はしてた。

共に、母と死ぬ。そう決めていた。

幸い、うちは、流されなかった。近所のことは、どうでもよかった。

TVを付けると、津波が押し寄せる映像が、ずっと流れていた。

どのチャンネルを廻しても、全てが、濁流に飲まれていく街の様子を映した映像ばかり。

母と私は、ずっと、その映像をみていた。

母が、画面に釘付けになっていた。

後で後悔した。母のストレスになっていたのだ。私も、フラッシュバックする経験をする。

TVを消しても、目の前に、濁流が流れる映像が リアルで流れるのだ。

二年間消えなかった。カーテンを開けれなかった。外に流れる濁流が見えて、あけれなかった。

私は、逃げるようにして、ネットに逃げた。

震災に関する情報を集め、母のラコール情報を集め(入手が困難だったから)、何かに没頭するようにした。

その合間で見つけた情報を、ブログにあげていった。

はじめは、善意ではなかった。ただ、津波から逃れたかった。それだけで行動していた。

あの大災害があった日、人は変われたかのように「絆」を口にし始めた。

何が起ころうとしてるのか? いきなり、親切の押し売りのように、親切の要求のように、「絆」という言葉だけが独り歩きしはじめ・・

私は、心に、冷たい感情が ふつふつとわいてきた。

私の中の この国の民に対する憎しみは、絶対変わらない。

だけど、私の事情と、震災は別。ご近所と震災被災された方は別。

だから、私に出来る範囲の応援はした。

このブログで、たまに、「良い文章だ」とコメントされる方がいたが・・・心は痛まなかった。善意は私にはなかったからね。

かといって、悪意を持って、応援ブログはかけない。

善意はない。けど、悪意もない。ただ、「当たり前のことをした」

当たり前に、当たり前のことだけをした。だから、心は痛まなかった。

一年半たった頃、このブログに、善意でしているわけじゃない本意を書いた。

疲れた。津波から逃れたいがためにしていたブログでの支援が、津波から離されない状況を産む。

カーテンの向こうは、いまだ濁流が流れる映像が流れてる。

狂いそうだった。

それに、母を抱えて、誰からも助けは来ない。この状況は変わらずなのだ。この状況で、二度目の津波がくれば、絶望するしかない。

他者に支援する気持ちになれない。

助けてくれ!の言葉に、「助けてほしいのは、貴方だけじゃない!」と言いたくなる。

この強い拒絶が起こり始めて、私は、ブログに支援文を書くことをやめることにした。

私は、これを、母が、私の腕の中で、息を引き取るまで、ずっと抱えてきた。

死んで欲しくはなかった。せっかく、やっと親子になれたのに・・・

まわりは、「母親のために、金を惜しむな!おまえは、おまえがかわいいんだろ!」と攻めたてる。そんな医療従事者と介護福祉士たち。

この世から消してやりたいぐらい。医師と介護士は、大嫌いである。

金を引き出させたい。それが、本音だろ?それを、直接言ってあげれば、黙る相手。図星なのだ。どいつもこいつも。

医療従事者のほとんどは、金ほしさだ。これは、間違いないと思ってる。

母との最期の最期まで、私は、あいつらと戦ってきた。憎んでる。今も。ずっと。医師なんて「病を治せない医師」など、この世から消してやりたい。

善意の押し売りをしてきた介護士ども。介護者を追い詰めることが、この人たちの仕事だ。最低な仕事だと思ってる。

人手不足だから、確実に金になる、介護士になる。そんな人のほうが多い。人格者など少ない。

介護者は、声を出せない。介護に忙しい上に、介護経験が少ないので、「声をあげて訴えることができない。知識がないから。」

だから、全て言いなり。介護士の言いなり。だから、追い詰められて死ぬ人もいる。

TVのCMで、介護士の宣伝が流れるのをみると、虫唾が走る。

ネットでもそうだ。

いや。憎しみはある。だけど、ここまでにしよう。これ以上書くことに意味を感じない。

私は、この国が嫌いであり、この国の民が嫌いであり、この国の医師が嫌いであり、この国の介護福祉士が嫌いなのは、変わらない。

だけど、偽善でも、「憎しみを抱えていても」

人は、思いもしない行動に移せる。

今、こうして、本心を書きながら、今まで私が書いて来た記事を読んで、不思議に思う。

憎んでいる人を、なぜ?助ける気持ちになれたのか?

私は、良い人間ではないのです。

私は、あなたらを、憎んでいるのです。なのに、支援したんだ。

今、二年目に入って、母の一周忌が来る。

偽りの言葉は、ここには、綴らないと誓って描いてきた。

だから、今日は、書くことにしました。

私は、許しを請うてはいません。なぜなら、私は、今も憎んでいるから。敵と思っている相手から、何を言われても、何も感じてない。

そんな自分を顧みて、哀れだとは、思う。