朝までテレビを、久しぶりに視てた。
お久しぶり。このブログ更新するのを、こんなにしなかったのは、久しぶりだなと思う。
気が抜けてるからっぽの私
もう意識がはっきりしない母。そろそろ、お別れするんだろうな・・・
母へ あんた一人で、いいとこ行っちゃってさ。
逃げれるものなら、自由度の高い そっちで逃げ回りたいよ。私も。
こんな時間に、愚痴交じりに、ブログ書いてる私なんだけど
3時ちょうどだったかな?・・・
あれぇ?この番組・・・観たことあるなぁ。。と思ってTV付けて観てた。
視てたのは、「朝までTV」。その話しようと思う。
久しぶりに視たのだけど、あまり、感想書く気にならない。
だって、つまんなかったから。
出演者の人の目が、「つまんねぇ。早く終わらねぇかなーー;」って印象で映ってる。そうじゃないかもしれないけど、びえいには、そう視得た。
で、なんで、そんなにつまんないのか? びえいから視得た印象だけど
想像力働かせる。って段階までは、誰もが往ってるけど、
「危ない」って、解ってても・・・たった一人がどんなに頑張って「危ない」と言ったところで、結果は、視得てるじゃん。
じゃあ、落ちるとこまで往くしか、「危ない」ってことを実感できるやついないだろ?
それからじゃねぇの?って、雰囲気
うまく説明できないけど、そういう全体から伝わる雰囲気が、一番印象に残ってる。
「危ない」って言葉に当てはめる事柄は、いろいろあったよ。
「10年後のこの国は、やばいだろ」
「人口減少、やばいだろ」
「格差やばいだろ」
「税収やばいだろ」
「社会保障やばいだろ」
「年金もらえんの?やばいだろ」などなどね。
びえいからしてみれば・・・・どうでもいいこと の話し合いだった。
とても、無責任な言い方だけど、
10年後やばいことが、わかってる人がいるなら、やばくならないように、人は動けるでしょ?
やばいことに気付けないことが、10年後やばいんであって、「気付いた時点」で「危ないこと」ではなくなってる。
今から「危ない」とわかってても、遅すぎるの?
遅すぎたなら、それを解消する手立てを 人は考えれるんじゃないの?
ってこと。
結局、怖いってだけ。私が実感してるから、私の実感してる範囲で言うけど
「何が正解か?」なんて、誰にもわかんないよ。
「あのとき、あの決断は、正しかった」
もしくは、「あのとき、あんな決断をしなければ、こんな国にならなかった」
正解だったら、それでよし。正解でなかったら、それを解消するために、人は、また考え始める。
正解だったら、不正解だった場合を経験しなかった分、また先の未来へ進めばいいだけ
不正解だったら、正解を見出すまで、チャレンジし続けるだけ。
びえいは、批判をするなら、「提案一つは、もってこい」って考えなので、また書こうと思う。
批判と提案をセットにすることが、なんのためなのか?書いたことなかったから、前説で書くけど
何かを成すってことは、「正解」も「不正解」も、同時に産み出すよ。
ただ、私の中に、「正解」はなく「メリット」と置き換えてる。
もう一つ「不正解」はなく「デメリット」と置き換えてる。
私が、何かを批判することは、「何かを成したけど、デメリットが発動したことで、問題が生じているよ」ってメッセージの発信でね。
びえいは、「不正解」と言わないのは、その言葉に秘められた「失敗への拒否」をしないの。
びえいは、「デメリット」とするのは、その言葉に秘められた通り「失敗から生み出される答えも視ようよ」って、肯定するんだよ。
なんかに例えるんだったら・・・こうかな?
「ああ!だめだめ!それやったら、絶対だめだって!」と拒否するよりも、
「こうすれば、こういうデメリットが大きいけど、メリットを引き出す手立てはあるよ。その手立てをこうすれば、マイナスはプラスになる」って肯定する。
これが、びえいの考え方なんだ。(なんだ。っていうか、それしかない。そうなっちゃう。)
うんで、
今回の「朝までTV」・・・そういう話し合いが、誰からも視得て来なかった。
「はやくおわんねぇかなぁーー;めんどくせぇ」って雰囲気伝わってた。