答案用紙に「自由解答」 提出後 国語教師から「マニュアル通りに書いてない」×点

私の高校時代、期末試験でのこと

国語の答案の最後に「自由解答」と書かれていた。なので

自由に書いた

500文字ぐらいで、念入りに・・・・

提出後、職員室から呼び出しくらった

「君、長いよ^^;ふざけてるの?まじめに解答しなさい」

(は?!何いってんだ?このおやじ・・・)

「自由解答と書かれていたので、自由に書いたんですが?」と答えた

はぁ・・・( ´Д`)=3

「みんなの答案みせようか?教科書読んでるの?程度ってものがあるでしょ?」

「マニュアルってものがあるでしょ?手本。これ見なさい」

見せられた見本答案には、「似たり寄ったりの解答」が、何十枚も・・・

「自由解答だから、自由でいんじゃないですか?」と言うと

^^笑って、「それは、屁理屈というもんだ。教室帰りなさい。今度からは、気をつけてね」

その日から、この先生の授業は受ける気がしなくなった。

自由解答にも、「程度ってもんがあるだろ?」めんどくさ・・・

硬いなぁ・・・気持ち汲むから、自由解答なんだろ

みんな同じじゃ、「こんな感じ方がある。ここから、こういう印象を受ける場合もある。言葉のあや・・間違ってこう伝わる場合もあるのか。」ってのが、わかんねぇじゃん。

自由解答ってやつは、あとから、公表し、互いの「感じ方」を「出し合う」「意見を交わす」ことが大事なんじゃないのか?

そう思うんだよ。

私は、今回の試験会場での出来事で思うんだけど

「正しい答え」は、「一つ」じゃなくていいと思うんだ。

正しい一つの答えが、導き出される過程が、しっかり学習されていなければ、「答案の答え」は、出てこない。

だから、そういう問題が主に作成されるんだろうけど・・・

あとは、時間短縮のため。採点時間のね。

なんかなぁ・・・受験って試験、いらないんだよなぁあ・・

私の想像する試験の過程は、こう

一発で決まる「人生を決める試験」は、一度じゃなくていいと思う。

敗者復活戦試験があってもいいし、特待者優待サービス付き試験もあっていいと思う。

その試験が、学業を始めた「その日」から、毎年、毎月、いつでも、やるんだよ。めんどくさくても、やるべき。

試験としてではなくて、「イベント」としてね。

これを設ける背景は、入学して、6年間ないし3年間 の学業の

最後に「締めくくる試験」が、入試・・・って過程が必要ないと思うんだ

学業期間内っていうのも、ダイレクトに20歳まで通し これでOK

あとは、学問を始める3歳ぐらいから20歳まで(年齢は、例えで書いてるから、あんまり気にしないで)、

ワタミの社長さんが言ってるけど、「その道のプロ、職業のプロ、職人さん匠、彼らが携わる学業形態」こいつも必要だって思うし

まだアバウトで、はっきりとした形が視えてないから書かなかったけど

メモとして書いとこうと思う

卓上の計算では、現場の計算に必要な「緊張感」は得られない。

現場では、「生死に関わる計算」がされる。

ほんの少しの計算ミスで、「船が浮かばない」「鉄板の歪みの見込みが足りない」「沈む」

重さに耐えれない 倒れる

数学が一番伝えなきゃいけないことは、

現場では、「0.05の狂いが、生死を分かつ」って緊張感。

(0.005の狂いでもだめってとこもあるよ?)

卓上じゃあ、それは、伝えきれない。緊張感があるものだってね。

これを、他の学業に対しても、現場を通して、「伝えなきゃいけないものは、ここにある」ってのが、伝わんない。

数学は、これだけじゃないだろうけど

国語だってそうだ。

日々、うちらの国では、その時代その時代の「現代語」が進化していってる。これは、文化。

ところが、「言葉」ってやつは、伝わるやつと伝わらないやつがいる。

「おまえ、遅れてる」 話になんねぇ・・それぐらいのことわかんねぇのかよw?

私が、口すっぱく 伯父から教わったこと 元国語の教師だったから。

相手が、どんな言葉で話して来ようと、相手と対話し(対話できなくて、ジェスチャーでもね)

相手がわかる「ツボ」 お互いが共感する「共通点」を探って

そこから、会話を広げる。

言語の違いじゃないよ。お互いが入り込みやすい「共通点」を探ることが、相手への思いやり。

ただ、自分の話したいことを話すのは、思いやりがない。って言うんだよ。

自分の慣れた話題で(話し方や言語で)、

「おまえ、解れよ」っていうのは、「対話じゃない」って、

そう教わったんだよ。

そりゃ、努力いるよ。努力もしないで、うんなこというのは、

相手に、「合わせろ」って言ってるも同じって、返してきたやついるから。

それも、一理。だけどね。

出だし、出会いのはじめは、「それほど興味のある相手じゃない」わけで

大抵が・・・

うんな態度されたら、「めんどくせ・・もう話すのやめよ。こいつ」ってなるのが、落ち

だから、似通った「同レベル」の「対人関係」に凝り固まる

難しいよ・・・世代の幅ごとに、言語が違うから

同じ日本人なのに、日本語で話すよりも、ジェスチャーのほうが早いだろwってのが思い知らされる

私は、国語に、ジェスチャー世界共通動作を入れてみたい。

とりあえず、これやっときゃ、大抵通るよ?って「基本」

それと、

最初の書いた「自由解答」のつづき

みんながみんな同じ答え が、マニュアルだ。っていう先生の言葉

私は、国語から、始まると思ってる。

意見を交わす。思っている思い方を語り合う。

時間が足りないだ、なんだかんが言おうが

「民主主義」の国で、「民主主義」について「学習」しない国なんておかしい。

「答えは、一つじゃない」「感じ方も、一つじゃない」

意見を交わす場がない。国語の時間が、一番「言葉」に対して敏感になれる時間なのに

言葉の重み 言葉に隠された思い 言葉に込められたメッセージ

これを伝えることを教わる場所なのに

マニュアル通りでやり過ごすことが通る時代を生きた

そんなんで、民主主義を学習できるかよ・・・国語が、もっとも伝えなきゃいけないのは、ここにあるのに

答案一枚のために、犯罪を犯す。

そもそも、誰もおかしいっておもわねぇことが、おかしい。

一発で「人生が決まる」って印象がある。

正社員でさえ、いつクビ切られてもおかしくねぇ時代にだ。

こんな、緊張感ばっかり続く。ゆとりが必要だって言ってるんじゃない。

人の人格、能力は、「一発で決めた試験紙」で判断できるもんじゃない。

「意見を交わし」「感情を交わし」「時を通して交わし」「時にイベントで能力の一端を知る」

この過程が抜けてる。

人の「可能性」を見出す場でもあり、どこに「可能性」があるのか?発見する場でもあるのが、学校。

伯父から、教わった教育現場とは、そうだよ。