実際の死 と ゲームでの 「死」(その�@)

今日は、胸が痛いので、あまり長文にはなりません。

まず、

目の前で、死に行く様というものを、目視したことがない方たちへ

伝えたいこと

母は、戦時中に体験した出来事で、目の前で、生きたまま焼かれる親子を目にしたことがあると話したことがある

淡々と話すんです。戦時中の経験を。

私なら、そんなものを目の前で見せられたら、発狂するかもしれない。

彼女は、その体験を、淡々と話す。

よく平気で、話せるよな・・・って、はじめは、そう非難した。

「聞きたくない!」と、私が言ったら

私の「感情的に出した声」で

母が、泣き出す。子供みたいに

兵士が、怒号をあげてる。その中で、焼き殺される親子。

兵士と私が重なったみたいです。

私には、「死」について経験がなかった。だから、どう受け止めていいのか?

わからなかった。

私が、目の前で死に行く様を見たのは、私の息子 猫の「まる」の死のときです。

覚えています。話すと、苦しくなる。

私が死ぬまで、忘れられないでしょう。

母のように、淡々と話せない。

私の体験のほうが、これが、普通だと思う。

それなのに、母は、違った。

母は、一部として、それを記憶しているんだろうね。

「人の死」を受け止めるしかない状況。

「動く物は、全て焼き払う。撃ち殺す。」そんな状況にいたから。

彼女は、「生きるだけで、せいいっぱい。」と言ってました。

「死」を受け止める。「死」を考える。「死」を悲しむ。

というのは、「生の危険」のない中でしか考えられない。

「いつ、自分が殺されてもおかしくない状況」では、こうなるのかもしれない。

淡々と話す母のことを、思い出して書きました。

(今は、脳疾患性痴呆なので、記憶がまばら。)

つづく

次は、私が、ゲームの戦争にこだわる訳です。